2008年11月上旬 決別宣言!

ひーまま (陽満々)

2011年01月06日 23:55

この記事は回顧録です。

悪阻のため入院していた都内の病院では、O医師から執拗に中絶を
勧められ、正に人生最低最悪の日々を過ごしていました
そんな中、やっとケトン体の数値が下がり退院できることになった時、
K医師からはこう言われました・・・

「母子手帳を取るのですか?」
まぁ、記念に取っておきたいのだったら、いいかもしれませんね・・・」

(「記念」っ
どういうこと?それじゃあ、まるでお腹の
赤ちゃんがいなくなってしまうみたいな言い方じゃない)


本当は二度と、こんな病院の敷居を跨ぎたくはなかったけれど、
次の外来は、しっかり母子手帳を取って受診してやる~
と思って、外来の朝、酷い悪阻の体をおして区役所へ

母子手帳を取得するためには、申請書に色々と書き込まないとならない
下を向くと、気持ちが悪くなるのを必死に我慢して、手にした母子手帳
表紙はイケてなかったけれど、キラキラ光って見えて
本当に嬉しかった・・・

40歳を過ぎた私が妊娠できるなんて
私のお腹の中には新しい命が宿っているなんて
本当に信じられな~い

と、感傷に浸っていたかったけれど、O医師にしっかり母子手帳を見せて、
転院する旨を伝えなければならな~いとまたまた悪阻がしんどい体に
鞭を打って都内の病院へ


O医師の内診では相変わらず、浮腫が厚いこと、染色体異常の
可能性が高いこと、中絶すべきであることを伝えられる
(ハイハイ・・・)
内診終了後、取得したての母子手帳を取り出して、
(じゃ~ん)

私:「ダウン症児であろうが、他の染色体異常の子供であろうが、
  私は産みます!そのために母子手帳も、この通り取りました!!」
O医師:「ダウン症児は病院通いが続くんだぞ!」
私:(「~ぞ!」なんて汚い言葉を使うんだ・・・)
  「病院通いをすることで、子供の病気が良くなるのだったら、
  喜んで通い続けます!」
O医師:「いいか!将来は肢体不自由児になるんだぞ!」


呆れ返って、二の句が告げなかった私・・・
確かに、ダウン症児は筋肉が弱いため、歩行開始が遅いとは読んだけれど、
「肢体不自由」とは意味合いが違うでしょう・・・

「ダウン症児は長くて20歳までしか生きられない」
発言も含めて、
医師が間違った情報や知識を、患者に与えるなんて、
絶対にあってはならないこと
やはり、この医師は信用も信頼もできない
早く転院しなくては~

転院する旨をO医師に伝えたところ、
「勝手にしろ!」みたいな感じになり・・・
「喜んで、勝手にするわ~!!」という感じで、
O医師に決別宣言するのでした

病院の玄関を晴々とした思いで通るとともに、
生まれて来た赤ちゃんに染色体異常が認められなかった場合、
仮にダウン症児であっても、私が出産したことを一度も後悔しない
で1年間を過したら(子供が1歳になった時点で)、O医師に
クレームを付けに来ようと強く決意するのでした

そして実際、昨年6月にO医師に会ってきました。
その内容は、後日、書きますので、お楽しみに~


転院後の記事は、カテゴリー「おひーさまと出会うまで」に
書いていくので、「人生最低最悪の日々」シリーズはこれで
終了となります。

なお、胎児エコーが出生前診断化しつつあることに疑問を呈した
記事「頸部浮腫(NT)=染色体異常?」を姉妹ブログ
「障がい児を産むという選択」に書きました。
併せて読んで頂けましたら幸いです



今日のラッキー
ようやく布多天神に初詣に行けた
担当してくれた美容師さんが男前だった


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